錆び  錆美  sabi

我々はものづくりの場として「半島」にアツい視線を送っている。

なぜか? それは「錆び」に心奪われているからだ。

半島は海に突き出ているため、潮風と紫外線が容赦なくモノの表面を襲う。

その結果もらされる「酸化」や「劣化」や「風化」がもたらす価値に魅せられている。

しかし、発想や組立そして展開という頭の構造にしばられている我々には手ごわい現象だ。

しかし、しかし、「錆び」を「錆美」に一瞬に転換する才能は確かに存在する。

仕事を通じて、稀有な才能に出会ったことを感謝する。ただし、嫉妬まじりに。

「錆び」を「錆美」に。そして世界の「sabi」に。

N.F

book

たま~に、取り組んでいる仕事を冊子にまとめる機会がある。

ベストショットと美文が並ぶ作品集ではなく、取り組みの「全体像をありのまま」伝えるためのものだ。

しかし「全体像をありのままに」表現するのは案外難しい。

カッコ良く見せたい。ハイレベルに見せたい。そんな色気がどこかにあるからだ。

それは悪いことではないが、コンテンツが長持ちするためには飾りを漂白して主題だけを提示する必要がある。

そのために関係チーム全体で何度も何度も編集作業を重ねる。

たった一つのテーマを、カッコをつけずに、楽観的に、勇気をもって、アツく、、

 

小さな建築  2011

自費でつくったもの。

東北の大災害の後、「大きくて重い」建築の始末の悪さを実感し、

「小さくて軽い」建築の在り方や作り方についてまとめたものである。

この冊子をまとめるために振り絞ったアイデアは、設計する対象が大きくなって来た今、

「部分的に密度を上げることで全体を活き活きさせる」 という考え方の原資になっている。

 

超・過疎化力シャコタン 2017

過疎化対策に苦戦する行政からの依頼でつくった。

積丹半島を題材に、過疎化が今後「替えの効かない価値」をもつという逆説についてまとめている。

取材対象は人、自然、暮らし、歴史、サービスなど多岐に渡るが、建築に関する記事は全体の5%くらいだ。

それでも極端な過疎化が建築やレジャーをはじめとする様々な分野に好影響を与えるという「聞きなれないストーリー」について熱く語っている。このストーリーは10年後には当たり前になっているに違いない。

 

「えにあす」コンセプトBOOK 2018

設計クライアントの依頼によりつくった。

「事業性と公共性は水と油ではない」という今日的なテーマについてのごく簡単なマニュアルだ。

民間投資による公共的な建築の事業や運営の仕組みについて全体の90%を充てた。

建築そのものの説明にはほとんど紙面を割いてない。

数年後、「事業性と公共性」についての可能性と課題の物差しになっているだろう。

お金をかけてbookにするということには二つの意味がある。

一つ目は、現在の営業ツールとして。

二つ目は、未来の自分への手紙として。

だから「ありのまま」が重要になってくる。N.F

to Me.

to Me.jpg毎日毎日、仕事やプライベートに翻弄されながら、流れ続ける時間の中を泳いでいる「私」。

ご立派なこと、不遜なこと、とても人には言えないことを間断なく考え、感じ、思い続けている。

ときどき、こんなとりとめの無さに嫌気がさす。

そこで、ダラーッとした時間を一瞬堰き止め、散漫な「私」を部分的に切取り、

それを傍観し嘲笑することで自省と推進のエンジンにしたい、、、

という強い衝動にかられることがある。

それが私にとって文章を書く唯一の動機である。

 

そんな性分だから、他人が「私」に向けて書いた文章を読むのが好きだ。

しかし、「私」に向けて書かれた文や本は案外少ない。

「あなた」、あるいは「あなたがた」に向けたメッセージが売れるのだ。

「私」に向けることと商業性は両立しにくい。

 

偶然手にした本。これは建築の専門書である。まだ建築家としては無名の若い人が書いている。

超有名建築家を論じるという体裁だが、内容は一言一句「私」に向けた文章だ。

俗人としての「私」 が 聖なる作品をつくるアーティストを志向する。

このウソっぽさを「私」としては放置できない。

この矛盾、というより亀裂に近い状況を抱えた「私」に向けた文章だ。

ダラッとした日常の妄想を確実に切取り、亀裂の正体やそれらを繋ぐものを洗い出し、

その状況を克服する術を渇望する熱量は半端ではない。

こういう人はきっと近い将来、何者かに成るに違いない。 

なぜなら、「私」に向けて行動できる人は「私たち」に向けて行動できるからだ。

「あなたがた」という姿勢では、いつまでたっても状況は打開できない。N.F

 

 

 

 

 

 

 

 

意識的に、無防備。

この世の中でこわいものは?と聞かれたら、、、

まず、あの世からの使者だろう。

まだこの世にやり残したことがあるから、もう少し待ってほしいのです。

もうひとつは、、、人。それも無防備な人。

もしそれが意識的だったら相当手ごわい人だ。

 
意識的に無防備.jpg

ヘルンは毎夜、妻の話に耳を傾ける。意識的に、無防備に。

あらゆる先入観をなくして、物事の本質を感じるために。

完全なるオープンマインド。いやノーガード戦法だ。

小声でゆっくりと片言の英語で語られるのは、通俗的な日本の怪談である。

耳から心へそのまま入った言葉は熟成された後、英語で書き直される。

 

再話=re-telling:魂を吹き込んで語りなおす

 

 

偶然の出会い、不合理な別れ、説明のつかない再会と突然の結末。

 

簡潔なセリフによる展開と緻密なト書きで、通俗的で凡庸な伝承が

普遍的で心に刺さり込むサスペンスに語りなおされる。

 

 The Story of Mimi-Nashi-Hoichi , Rokuro-kubi , Yuki-Onna

などの有名なKwaidanは「再話=Re-telling」によって生み出された。

 

 

ヘルンは日本という未知なるものの本質をとらえるために

終生「意識的な無防備」でありつづけた

 

我々は日々の仕事において、通俗さや凡庸さを、普遍性に磨き上げる能力

を渇望する。

つくるものがインスタ映えなんてしなくていいから 

その能力がほしい!本当にほしい!ああほしい。。。

しかし意識すればするほどそれは困難だ。

 

Kwaidanが伝えているのは、日本が幽霊天国であるということではない。

意識的に無防備でいることが、見えないものを可視化し、

俗を聖に静かに移動させ、凡庸を普遍に化けさせるための術

そのものなのである。。ということだ。

 

 

ヘルンこと小泉八雲は日本のことを、ワンフレーズで切り取る。

 - 様々なものが無限に手作りされてきた国

N.F 

changeの戦略

minobeの戦略.jpg

ええー、ここに美濃部孝蔵というかわった男がおりましてな、

かわりにかわっておるのでございます。

なんでも明治二十三年の生まれだそうでございましてね、 

小さい頃からさんざん悪(ワル)をしたあげく、

仕事を転々とかわりましてね、いよいよ定職につかなきゃってんで弟子入りしましてな、

三遊亭盛朝と名乗ったのでございます。

数えの二十一で高座にあがり、めでたく三遊亭朝太と名をかえたのでございます。

それから圓菊とかわり、そのまた数年後に金原亭馬太郎にかわったのでございます。

 

それから間もなく武生にとっかえ、馬きんにひっかえ、

古今亭志ん馬とかわったのは大正十年のこと。

ちなみに小金井芦風というかわった別名もございましてな、

その後も順調にかわりつづけるのでございます。

古今亭馬きん、馬生とかわり、昭和に入る頃には柳家東三楼に。

それで下だけちょいとかえましてね、甚語楼です。

こうなったら、どんどんかえちめぇ!ってんで

隅田川馬石に切りかわり、柳家甚語楼にかわり戻って、、

古今亭志ん馬にすりかわり、金原亭馬生にかわりはて、、、

ついに昭和十四年に五代目古今亭志ん生にかわり着いたのでございます。

それから三十余年というもの、志ん生を名乗り、

その名はひろく愛されることになったのでございます。

そして昭和四十八年美濃部孝蔵としてあの世へうつりかわったのでございます。

なんで、そんなにかわったのかってぇーと、、、、

「替り目」が十八番(おはこ)だったからでございます。 m(__)m

 

美濃部孝蔵→三遊亭盛朝→三遊亭朝太→三遊亭圓菊→金原亭馬太郎→

金原亭武生→金原亭馬きん→古今亭志ん馬→小金井芦風→古今亭馬きん→

古今亭馬生→柳家東三楼→柳家甚語楼→隅田川馬石→柳家甚語楼→

古今亭志ん→金原亭馬生→古今亭志ん生→美濃部孝蔵

 

 

Tanizakiの戦略

Tanizaki.jpg出張や旅の出がけ、時間の無い中で何も考えずに偶然つかんだ 本が不幸にも

谷崎潤一郎であることが5年に1度くらいある。

そしてその後48時間は怒涛の愛憎劇に巻き込まれることになる。

 

巨匠の条件のひとつは「出力」の多さであるが、谷崎はそれどころではない。

句読点や段落はあるものの、1ページ目文頭から最後の一語一句まで語り手による独白に完全にモッて行かれる。

すこし芝居がかった、しかし押しの強い、それでいて弁の立つ演説に捕まった様なものだ。

つまり逃げられない。。。

読者を逃がさないTanizakiの戦略は、、、

①シームレス(つぎめなく展開する事件や場面)

②エモーショナル(登場人物が自らの感情の奴隷になっている) 

③幾何学性(人間関係の配置や変化の美しさ)

 

①シームレスについては、20ページほど読めばすぐに予感できる。

②エモーショナルについても、50ページ読めば「感情による判断と行動」が愛憎劇のエンジンであることがわかる。

しかし③幾何学性については、愛憎のドロドロに巻き込まれている最中にはわからない。

物語の終盤になって、数人の男女が接近し離れていく構図が幾何学模様のごとく綺麗に感じられるのだ。

 

先日つい手にしてしまった「卍」も、二組の男女が複雑に入り乱れ、

その容赦のないドロドロの愛憎劇から逃れられなくなる。

しかし物語の収束を予感する終盤にさしかかるころになって初めて全体を覆う幾何学的な

デザインをなんとなく感じるのである。

「つぎめなくドロドロ」を最後まで一気に読ませるために、

Tanizakiが用意した戦略は万華鏡のように変化する幾何学だったのである!!

 

まあ、私がここで近代の文豪についてアツく語っても仕方ないのだが。。。N.F

 

Keanuの戦略

フィルムから デジタルへ.jpg20世紀も終わるころ、キアヌ・リーブスは「マトリックス」で映像のデジタル編集を経験した。

そして10数年後、彼は「サイドバイサイド フィルムからデジタルシネマへ」を自ら制作する。

デジタル技術により撮影や編集が劇的に変わった。

ざっくり3点あげると。

 ・フィルムの購入費や輸送費がかからなくなった。

 ・フィルム交換不要のため撮影時間に制限がなくなった。

 ・カット割りやカラーリングなど編集パターンが無限大に広がった。

 

“職人気質が多いフィルム派”の監督やエンジニアのご意見は。。。

  「現場から緊張感が消えた」

  「撮影素材が膨大になったことで、編集に迷いが生じる」

  「デジタルなんて映画じゃねえ!」

 

“進取気性のデジタル派”のご意見は。。。

  「お金がなくても映画がつくれる」

  「技術的な選択肢だ、恐れることはない」

 

その後デジタルカメラの技術開発が進み、

「カメラのようなパソコン」や「カメラのような電話」がうまれた。

その結果、映像は誰でも手軽に撮影発信できるようになり、

アプリやサイトを開いたら溺死しそうなくらいの映像が溢れだす。

 

 映画の終盤は、ある巨匠の言葉でくくられる。

「すべての人間が紙とペンを手にしたからと言って、いい物語が増えるわけではない。」

「技術的な手段が大切なのではなく、物語をつくる情熱が大切なのだ!」

Keanuの戦略②.JPG 

私も日々の仕事を通じてこう実感する。

職人気質か進取気性かは問題ではない。

むしろ問題なのは、手軽さの生み出す弊害だ。

情報を膨大に拡散し、反応速度とウィットと忖度が求められ、

議論の深さを回避し、審美眼を鈍らせる。。。

格差と貧困を助長し、争いを誘発する。

やがて、川は枯れ、山は死に、海は荒れ狂い、大地が割れる。。。。

 

。。。なんの話しでしたっけ??

 

Keanuの戦略、深すぎます。 m(_ _)m

N.F

 

 

 

 

 

整理に次ぐ整理

多忙な時こそ頭の整理が必要だ。

まず 「なぜつくるのか?」

次に 「どうつくるのか?」

中途半端でもいい。整理し続けることが重要なのだ。

直面するプロジェクトごとに「問い」を整理すると。。。

 

kro・・・ローカルビジネスのための新会社をつくり、丹後半島、積丹半島を舞台に次代の生活像をカタチにする。

整理に次ぐ整理①.jpg

 都会暮らしでもなく田園生活でもない第3の生活スタイルをつくるためのプロジェクト。

 人口減少社会に入り、感度の高い人たちが求めるのは人や情報の多さではなく、

 環境からのインスピレーションである。。。という仮説に基づいている。

 我々はまずは「半島」という近くて遠い、いや意外と身近な存在にフォーカスした。 

 「半島はそれだけでひとつの世界」 

 この魅惑的で手強いコンセプトをどの様に事業やカタチに落ち着かせるのか?? 

 写真はプロモート用にドローン撮影したカット。

 この中に海や山に親しむたくさんの景観や生活の知恵が埋蔵されている。

 

緑と語らいの広場・・・恵庭市の駅前通りに図書館・学童・コンビニ・スポーツクラブを一体的につくる。

整理に次ぐ整理②.jpg

 戦前戦後につくられた高価で立派な公共建築が役目を終えて各地で取り壊される。

 残せたとしても維持管理にたくさんのお金がかかる。

 本来公共が市民に提供すべきはヘビーな建築作品ではなく、空間とサービスなのである。

 このプロジェクトはデベロッパーが建設し、公共が入居し、 市民が活用するという事業。

 事業の性格上、作品化は我々の目的にはならない。

 事業性と公共性の間の同時通訳的デザインは可能か??

  写真は建設用地。公園でもグラウンドでも空き地でもない不思議な性格の場所である。

 ここにヒントがあるのかもしれない。

 

O歯科診療所・・・東大阪の旧街道に面する大きな敷地の一角に歯科クリニックをつくる
整理に次ぐ整理③.jpg

 10年越しでスタートした歯科クリニックの建て替えプロジェクト。

 大きな目的としては先代から受け継いだ稼業と不動産を次世代にブリッジさせることにある。

 小児歯科としてのフレンドリーなたたずまい。コンパクトなプランニング。

 将来への余力としての屋根裏計画。などいくつかの課題をギュッとひとつのカタチにする。

 まるで美味しいおにぎりをつくる感じで。

 写真は大阪肥後橋にある、センスの良いクライアントOさんのお気に入りのお店。

 大きなオフィスビルのエアポケットの様なスペースにつくり込まれた小さな小さなカフェ。

 この奇跡的な空間を実現したオーナーの賃貸交渉への執念と緻密なインテリアにハイタッチ!

 そしてこのショップを見つけたOさんの眼力とセンスの良さにハイタッチ!

 

整理しなければならないプロジェクトがあと3つあるが次の機会にすることに。。。

N.F 

 

Crazy四国 ③


ここは香川県高松市仏生山(ぶっしょうざん)、へちま文庫。

家具製作者のMさんが経営する、古書店と家具屋と茶房と工房が一体となったような場所だ。

以前から仕事を通じて凄腕なのは知っていたが、凄腕というよりCrazyだった。

椅子、机、風呂から家まで緻密なアイデアと施工方法でどんどんつくりまくる。

Crazy四国3-②.jpg

Mさんの様に自分で図面を描いて自分でつくるということは、

可能性と危険性が同居する行為だといえる。

アイデアと図面が緻密であればあるほど確実に製作物の質はあがるが

つくり手としての自分は時間的にも経済的にも体力的にも精神的にも窮地に追い込まれる。

日曜大工さえ拒絶する私には想像のつかない境地だ。

 

出来たての家を見せて頂いた。

Crazy四国3-③.jpg

オーク材の小さなブロックで貼り巡らされた床や造作。

そのアイデアのシンプルさの一方で、

間断なく水平垂直に連続させるのは骨が軋むような作業の連続だろう。

 

半日、いろんな仕事を拝見し、さまざまな話をした。

今年一緒に仕事をはじめる約束をして別れた。

 

自分で描いて、自分でつくる。

めまいがするほど危険だ。

Wao Crazy!

 

私に出来るかどうかは別にして、四国を総括すると、、、

 ・実験と失敗を重ねて方向を見出すことは時間がかかるが実りが大きい。

 ・可能性と危険性が表裏一体となるような仕事の仕方を選択するべきだ。

 ・Crazy四国はプロレスラーのリングネームのようだが、かなり弱そうだ。

N.F

 

Crazy四国 ②

温泉町の小料理屋で出会ったFさんは「伊賀焼」の極意をアツく語った。

酔いと焼き物についての無知から、私にはFさんが何を伝えようとしているのか

理解できなかった。

 

次の日、前夜のかすかな記憶をたどってその方の工房を訪ねた。

 

山の斜面に貼り付けるように民家を移築したその空間は室内なのか戸外なのか

判別のつかない不思議な雰囲気だった。

 


グレート四国2-①.jpg

そしてお気に入りの一品と窯の内部。

なんと窯の中の耐火煉瓦は溶けて鍾乳洞の様に怪しく黒光りしている。

 

 

伊賀から取り寄せた土をこね、2000度を超える窯に20日間ほど入れる。

過度に焼かれることで、土は溶岩の様に変成し、釉薬を使わないのに

不思議な色と光沢と質感が表れる。

 

Fさんは繰り返す。

「土が溶けて痩せるまで焼くのです。」

「土は痩せるのです。痩せてこそなのです。」

 

実験的に毎年少しずつ焼く日数を増やして20日にまで到達した。

 

常識を超えた温度と時間に耐えられるものは少なく、

生まれ変わって出てくるものは800焼いても1%ほど。

あとは壊れるらしい。

 

土が痩せるくらい、窯が溶けて壊れるくらい焼く。

Wao Crazy!

N.F