今年も北海道大学建築学科の卒業設計発表会にゲスト講評者として参加した。
コロナ禍での開催には学生側にも教員側にも大変な試行錯誤と困難があったと思う。
それに報いるために私は全力を振り絞るのだが・・・
私の前に置かれた模型。
捩れた柱、傾いた床、構築物としては崩壊寸前のようである。
昨今のどれも同じに見える美しく完成された駅前再開発に対するカウンターパンチであるという説明だ。
それにしても、この建物でショッピングをするのは命がけだろう。
高所が苦手な人は、お目当てのお店にたどり着くこともできない。
頭上でクレーンに吊られた資材にビクつきながらランチを食べるはめになる。
それはさておき。
この模型が放つ独特の雰囲気には二つの背景がある。
まず、模型作りの雑さ。
次に、建築は「完成するべきもの」だという通念に対する嫌悪感。
後者について、私は強く共感する。建築物は出来上がった直後から色んな経験を強いられる。
予定通りには使われないし、乱暴に扱われ、設備も音を上げる。
外壁は汚れ、陣地争いの末に間取りはあっさりと変形される。
これが現実だ。だから完成という言葉は手続き上だけのことだといえる。
もしそうだとするなら、決して完成しないことを喜び、みんなでそのプロセスを分かち合おう。
それが主張だ。
一見クレイジーだが、一方では建築物の宿命にポジティブに向き合っていると感じた。
伊勢神宮もガウディの教会も完成しない故に、建築物としても観光地としても消費されないのだ。
残念ながらこの案は大賞に選ばれなかった。
それはなぜか?
模型が雑過ぎたのかも知れない。
あるいは「完成しない」という価値を教員側が深く吟味出来なかったからかも知れない。
しかし建築物を「完成させるか」か「完成させない」かは地球と人類にとって大問題なのである。
「完成させる」は次の瞬間に「消耗」につながるが、「完成させない」は「持続」を意味するからだ。
それを巡って、みんなで大喧嘩するくらいのアツい発表会じゃないと「大きすぎる作品」は生まれない。
ということで、今年も一人で妄想と暴走を繰り返す、卒業設計への旅となってしまった。
N.F