デザインされる人間

人間は考え、話し、つくる。
石器から人工知能まで「デザインする主体は人間」だと捉えてきたが、この本の主張は真逆である。


自らが「創り・造り・作り」続けるデザインに、
人間が逆にデザインされなおしている(=リ・デザイン)という妙な話が展開される。

例えば石斧の原型が生まれたとしよう。
武器や道具として使用するための形状はシンプルで、製作上の手間はかからないはずだ。
しかし、「もっと巧く、もっと美しく、もっと早く」という人間特有の素晴らくも悲しき習性により、
用途を超えた「何か」に化けていく。まるで美術品のように。。。
この「何か」が人間の脳や体の構造までも変化させるというのだ。
これは刀や携帯電話、洋服や自動車を想像すれば理解できる。
日本刀に正体不明のJAPAN感覚を植え付けられ、
ピンヒールを我慢して履きこなすことで、体幹や足の形が変わるのだ。
デザインされるのは人間なのだ。
Are we human? = もはや我々は人間じゃないかも?

そしてこの本は「人間はデザインによって自らを滅ぼす種である」という警鐘で終わる。

こんな大局的な問いができるこの本の作者。
それでもイイ気になってデザインしたい私。

このギャップにしみじみ「人間味」を感じ入る秋の夕暮。N.F

束 縛


自分が好きな人の行動というものは気にかかるものだ。
できれば色んなことを知っていたいと思う。
しかし詮索や嫉妬ならなんとか見過ごせるが、束縛となると一気に緊張感が出る。
漫才コンビ和牛の「束縛」というネタは、危ないと面白い、キモいとカワいい、のせめぎ合いが滑稽でスリリングだ。
自己チュウ男の彼女に対する束縛内容はどれもが幼稚だがメニューは豊富だ。
それでいて妙に工夫が凝らされている。
幼稚さはもちろん計算されたものだ。

このネタに限らず、自己中心的な人格とそれに翻弄される繊細な人柄という二人の役回りは
常にコンビの軸として固定されている。
従って、人格の上で完全にズレている二人が遭遇する日常の風景をセリフの積み重ねとして切り取ることで
ネタは無尽蔵に生産可能だ。少々のミスやアドリブも、それぞれの人格に立ち戻れば
なんなく軌道修正や発展ができる。

通常漫才におけるネタづくりの大変さは、ストーリーを産み出す状況設定にあると思うが、
その都度、天から降りてくるアイデアを渇望するのではなく、
人格の完全なズレを観客に対して示し続けることで笑いが生まれることに気付いた
まさにその点に和牛の冴えと謙虚さがある。
、、、と、超人気コンビを今更分析しても仕方ないのだが・・・N.F