小さすぎる建築

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工場通いを続けて数年、じわっと実感してきたことがある。
 
それは単調でデカい空間に連続性と活気をもたらしているものの正体・・・ 
それが「資材のナガレ」と「工作機械」であるという驚愕の事実だ。
 
とりわけ私の興味は機械にあるらしい。
 
建物より小さいが、家具より大きい。しかもずっと精巧だ。
 
私は変質者ではないが、この「中途半端な大きさと精巧さ」に
タマらない欲情をおぼえる。
 
命名するなら「小さすぎる建築」。
 
広い工場の空間で、行儀よく配列する工作機械に対し職人は格闘し続ける。
その動きや集中力が、見学の我々にオーラを発散するのだ。
そしてそのついでに(?)に製品も出来上がっていくのだ。
p.b.Vの活動がショッピングセンターなど「デカさの再生」という
曖昧で到達度の見えないフィールドに突入したころから
何となく「小ささ」について問い続けてきた。
 
その答えが「小さすぎる建築」として焦点をむすびつつある。
 
エラーを恐れず、形にし続けることが大切だ。N.F
 

言  葉

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最近、「言葉」と格闘している。モノづくりと似ている。
出だしは楽しさイッパイで始まる。しかし、次第に「届かない」もどかしさに苦しむ。
 
届かないのは己に対してなので、勝手にやってろという感じだが、そうはいかない。
 
あるボクサーが「言葉は瞬時に人を殺せる」といったらしい。
時と状況がハマれば、言葉は防御不能なほどの脅威となる。
 
パンチの傷は癒えても、言葉は消えてくれない。
 
しかし、脅威は希望や可能性に反転するものだ。
 
ポジティブに、細心にそして大胆に選び取られた言葉は状況を好転させる。
モノづくりとの共通点だ。
 
無意識・無自覚に、言葉を垂れ流すことに恐怖を感じはじめたこの頃、
仕事の上でも言葉には慎重になっていた。
 
しかし、恐れてはイケない。ポジティブに攻め込むのだ。
 
先住民族マオリは、戦闘の前にHAKAという舞をおどる。
それは次のような言葉ではじまる。
 
―俺は死ぬ。俺は死ぬ。
―俺は生きる。俺は生きる。
 
こんなド真ん中のフレーズ、凄すぎる。
でも、戦いなんだから結果は生きるか死ぬかしない。 
 

工 場 狂

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p.b.Vは工場によく脚を運ぶ。自らの発想を超えるために、藁をもすがる思いで。 
 
工場とはコージョウだ。生産ラインに工作機械が配列されており、素材が資材や製品に徐々に変身して行く。
 
コージョウでは私の頭は「分析」に向かう。どの工程にデザインのヒントがあるか。だから案内担当の方には質問が尽きない。おそらくウザいだろう。
 
しかし時折言葉がなくなり分析が停止することがある。それは「コーバ」的な雰囲気に足を踏み入れた時に起こる。
 
コージョウとコーバを分ける定義はない。しかしザックり言い切るなら
 
 コージョウ・・整然とした「一方通行」
 コ ー バ・・雑然とした「行つ戻りつ」
 
 
告白します。
私は頭でコージョウを分析し、体ではコーバを希求している。
 
 
工場=コージョウ×コーバ。
 
似て非なる二つの発想の泉。
 
この影響はp.b.Vのデザイン傾向にも強く反映している。
 
「工場」から、我々は何をつかもうとしているのか?
それを知りたい。N.F
 

電 球 VS ソケット

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今回はプロジェクトX調ではじまる・・・
 
ここは世界の松下。パナソニックの展示会場。
数ある先端プロダクトの中にあって、ひときわ「地味」で
オーラを放つブースがあった。
 
様々な大きさの電球たちの展示である。
それらがLEDであるとしても、わざわざ電球の展示が必要なのか・・・
 
 
いや、ちがう。その理由は年配の説明スタッフの眼が語っていた。
 
「我々の原点は、電球ソケットだ。」
 
約100年前に製品化された、素人でも電球交換できるソケット。
今は当たり前すぎる「簡素さと効能」はこのソケットにより可能になった。 
 
有機発光やシリコン結晶など、最先端や未来技術とかいっても
この企業の原点は電球ソケットだ。
 
日常生活の中で必要とされ、大量に売れまくる商品がなければ、
研究開発なんてやってられない。
 
 
 
当初、八目ウナギの様に多光源のLEDは、シンプルな電球には不向きだった。
 
それが地味で継続的な開発により「点」光源が産み出された。
これで「小さな」電球の製品化が可能になったのだ。
 
 
LEDの点光源は、見せかけのデザインバリエーションで
ごまかしていたLED照明器具を、再び簡素な電球とソケットの関係に「還元」した。
 
電球の製品単価も下がり、格段に汎用性が増している。
 
 
 ― 電球を製品化したエジソンはもっと偉いんだろ?
 
 ― 有機ELのほうが凄いんじゃないのか?
 
 ― いや、俺はロウソクと炎しか信じない。
 
いろんな言い分が聞こえる。問いはつきない。N.F
 
 
 

働  く  椅  子

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「だれ!うちの店にピーナッツの殻を落としていったやつは。」
 
 
よく見たらエンドウマメだった。
 
いやもっとよく見たらアンパンだった。
 
いや、ちがう。キャッチャーミットだ。
 
ちがう、ちがう、顔色の悪いドラえもん?
うーん、なんか、人座ってるし、椅子かなー??
 
 
cafe me,We.とp.b.Vに1脚ずつ、新しい椅子が追加された。
 
ある方から譲り受けたのだ。
 
過酷な使用条件の中で、かなり傷んでいた。
 
そこで、表皮を全部張り替えることにした。
 
生まれ変わった椅子を眺めていると、職人仕事の気合いが伝わる。
 
 
どのレザーを使うかのポイントは「伸縮性」だった。
 
座面も含めて12ピースが張力をかけ合いながら縫合されている。
 
伸びシロを計算しながら、縫い合わせるのは難しいそうだ。
 
 
エッグチェアという名前の、北欧の、有名なデザイナーの、手によるものだが、、、複製品だ。
 
オリジナルに比べて肉厚があり、全体の輪郭がややモッタリしている。
 
私には「有名椅子」への憧れは皆無だ。
  
しかし、経緯によらず私の手元にたどり着いた「縁」は大切にしたい。
 
だから、徹底して変身させるのだ。オリジナルデザインの意図なんて、無視。
 
ある人はそれを「モノへの執着」というのかもしれない。
 
またある人はそれを「設備投資と回収」というのかもしれない。
 
いずれにせよ、変身後は壊れるまで「働いて」もらうのだ。
頼りにしてるよー。
 
人間とモノの関係についていえることは、現時点でそれだけだ。
 
PS 張り替えて頂いたのはカンディハウス社の職人さんだ。N.F

果し合い

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プロジェクト開始時期には「プレゼン」という機会が一度は訪れる。 
 
この修羅場を「平然として」乗り切りたいと、かねてより考えて来た。
 
そのためには二つの要素が必要だ。
「心構え」と「案の研磨」である。
 
 
心構えって何?と自問するうち、「果し合い」という答えに至った。 
 
「果し合い」をネット辞書で引くと、
 
 ―自らの剣がどこまで通用するのか
 -それを試したい者同士の意思で行う。
 
 
何という簡潔さ、過激さ。そして物騒さ。
 
しかしプレゼンの本質を表している。
 
発注者と提案者は互いに自らの剣のキレを試すのだ。
発注者は貴重な財源を有効に使うために慎重に「設計条件」を提示する。これが提案者に向けられる剣である。
これに対し、提案者は返す剣として自らの「案」を研ぐ。かくしてプレゼンは「果し合い」の場と化すのだ。 
「設計条件と案」ふたつの剣が研がれている程、勝敗は短時間でケリがつく。
 
プレゼンまでの数日は、果し合いで恥をかかないよう案を研ぐ静かな時間をすごしたい。ここが混乱していると「心構え」はできない。 
 
先日ある競技設計のプレゼンを行った。我々の剣は発注者の骨に到達しただろうか???
 
辞書には次の一文が添えられている。
 
 -そのため相手が命を落としても殺人罪には問われない。
 
ひえぇぇぇぇーーーーーー!!!
 
N.F
 
 
 

モルをホル

ホルからモルへ.jpg

都心公共図書スペースのリニューアルをやっている。
 
取り組みは二つ。
フロア全体のレイアウトに大きな手術を施し、広場を捻出する。そこに可動の本棚をおく。これだけである。
 
 
公共施設の少しおカタい雰囲気をホグすために、特殊プリントの力を借りた。
 
この日はそのテストプリント。カバの木目とインクの相性は想定より良い。
 
 
職人や技術者との、テストピースを見ながらの打合せは私にとって幸福の瞬間である。 
 
工程や仕上がりについて、立場を超えた意見が飛び交うのは専門性への自負と相互信頼の証しだ。 
 
この状況を作り出すのに数年がかかる。
しかし、壊れるのは早い。
 
細心の注意を払いながらも遠慮は禁物だ。
建築や空間の質に直結するからだ。
 
打合せも終わり、印刷会社のショーケースにあった点字シールが話題になった。
 
 
点字部分の盛り上がりは、なんと印刷によるものだった。
 
 
 
看板サインの技術的推移は
「描く→貼る→刷る→彫る」と理解していたが、もう一つの進化があった。
 
「盛る」。
これはインクを瞬時に硬化させるUV加工によるものだ。
 
 
盛る、我々が建築の構想のために扱わない操作である。
 
盛る、もる、モル。MORU・・・
 
「盛る」ということについて、もう少し「深彫り」してみよう。
  
っていうか、盛るのか彫るのかどっちやねん。
 
問いは尽きない。
N.F