支えるためのゲーム

リーマンショックと呼ばれた不動産投資バブル崩壊の時は、不動産業はもとより
建設業もかなりダメージを受けた。
しかし新型コロナ禍による影響はほとんど無い。今のところは・・・
それどころか膨張や加速の勢いさえ感じる。
理由はおそらくこうだ。
「ここが足踏みすると国を支えるゲームが終了するから」
ゲームとは経済である。

pbVも「支えるゲーム」に積極的に出場することで、下落傾向の建築の価値を高めようともがいている。
以下が目下の対戦相手である。
・廃校直後の中学を別人のように蘇生する農産物の加工場。
・ピンポイント改修で山岳愛好者の要望に応える名湯旅館。
・地元に愛される老舗居酒屋の新店。
・牧場と直結する乳製品の店舗工場。
・開拓スピリットにあふれた青年が手掛けるはじめての牛舎群。
・40年の悲願である町立図書館+スーパーマーケット。
・次の50年に向かって再生する築50年のオフィスビル。
・築20年の高齢者施設の空調と給湯の費用対効果のプランニング。
・茶道家がマンションにつくる夢の茶室。
・伝統的な木風呂の技術でゲストバーに変わる石蔵。
・寂しげな駅前通りにナガレとマタリを捻り出す盆踊り公園。
・アフターコロナに備えて変貌願望をもつ昭和バブル期の町営の温泉ホテル。
・重要文化財として150周年を迎える女学院のデザインプロモート。

これらをバラバラの対戦相手と考えると、ちょっとした業務バブルであり
弱小事務所である我々にはかえって経営危機となる。
対戦相手がどこかでつながっているイメージを持つことで、効率や効果の拡大を狙うのだ。
色んな回路でつながっていることを実感したい。
右から左へ、上から下へ、大から小へ、静から動へ、部分から全体へ、
硬から軟へ、奥から前へ、昨日から明日へ、
会話から図面へ、図面から模型へ、事務所から現場へ、怒りからユーモアへ、雨から晴れへ、
バスから地下鉄へ、口座から振込へ、、、

なんだか良く判らなくなって来たが、対戦相手が少なかろうが多かろうが、
実は一つの大きな「支えるためのゲーム」なのである。N.F

「密」study.2

90年前の都市づくりについての本。もの凄い立派。まるで高額美術書の風格がある。
100年の計としての気合が満ち満ちている。「密」が何をもたらすか、、、まだまだ未来予測の段階である。

 

60~40年前の都市づくりについての本。小ぶりになったが、やはり「専門書」のオーラは半端ない。
つまり街ユーザーの皆さんには、なかなか読んでもらえないシロモノ。
しかし「密」がもたらす混沌が都市の魅力であることも語られている。

 

30年前~最近の都市づくりについての本。一般書を通り越してマガジンの体裁。
季刊くらいのスピード感がないと都市の変化は捉えられない。
「密」とはつまりMeetsであるという、ついに都市づくりの「秘密」にたどり着く。

何のために「密」を考察するのか?
よくわからないまま、もう少し続けてみたい。N.F

「密」study.1

かつて、ある人がこう言った。
「都会の魅力と本質は、賑わいの中の孤独。」
その器である建築には、賑わいと静けさが常に同時に求められるのである。
贅沢な矛盾。作る側の私たちとっては無理難題。

コロナ後の世界について、識者やトレンドリーダーがこう予言する。
「密を回避する行動やテクノロジーが、都会を解体するだろう。」

これに対し、賑わいと孤独の両立に翻弄されてきた私は懇願したい。
「解体宣言の前に、密の操縦方法を教えてください。」

当然誰も教えてくれないので、いつもながら妄想するのである。

「人」という字は互いに支えあう(正確には干渉しあう)ことで、発見やアイデアが生まれる。
自分の殻に閉じこもっててはダメなのだ。
例えばこんな感じ。
↓↓↓

まずはカプセルから抜け出して、気の合う奴らと語り合おう。
コミュニティやサークルやグループの誕生だ。
↓↓↓

しかし、それでは話題や発想や行動が偏ってしまう。
あえて群衆や混乱の中に身を投じ、干渉しあいながら己を磨くことで、本当に大切なことが見えてくるのである。
↓↓↓

写真は8世紀頃の密教の世界観を見える化した曼陀羅。「会」を通じて「智」と「理」の両方が充足された「密な空間」を表している。
密でありながらも、僧の孤独は守られている、ように感じる。
N.F

「10年」で一言


才人が10年単位で世の変化を単純すぎる言葉で表現することがある。
それを聞いた我々は、出し抜かれたという嫉妬とともに「そういえば。。。」と納得もする。

先日、眺めていた建築雑誌の編集テーマはSuper Normal。
オランダを例に「超平凡」とか「凄く地道」な設計活動に焦点を当てたものだ。
この流れは、不動産投資が低調になった2008年以降の建設業界においては必然的だった。
新しい仕事の芽を求めて、小規模の改修工事やまちづくりを持前のアイデアと技術と熱量で
「平凡」や「地道」を超える次元に高める組織が増えたことをSuper Normalという言葉で捉えた。
嫉妬と実感と納得。

去る2月、卒業設計のプレゼン会において、ある学生さんの提案は以下の様なものだった。
「多雪地域の知恵である、雪割庇や風除室や除雪広場などの工夫を
数多くサンプリングし、今後のまちづくりの新たなデザインソースにヴァージョンアップする。」
地味さと野心の無さに好感を抱くと同時に、「地味さを何かに化けさせる」という世の流れに
共通するものを感じたが、残念なことに、それを単純な言葉で言い当てて
その学生さんを勇気づける力量が私には無かった。
Super Normal…これでした。

ちなみにその雑誌の巻頭文では「Super Normalの次はSuper Generic」と予言されている。
「すごく汎用性のある」「みんなが使える」と言ったところだろうか。
コロナ禍で生まれた、ソーシャルディスタンス, ステイホーム, オン/オフライン,
ドライブスルー, ロックダウンなどの自己防衛がSuper Genericなデザインとして
表現されていくことは間違いない。
具体例をあげる力量?、、、まったくございません。(>_<)
N.F

21LESSONSからのレッスン

今回は話題の著作の主張ついて論じることが目的ではないので、内容にご興味のある方は読んでみた頂きたい。悪しからず。
建築は規模の大小に関わらず、膨大な要素が複雑に絡み合うので、たとえ形状が複雑であっても伝達する方法がシンプルかどうかが成否に直結する。
その方法は必ずしも最初から用意されているわけではなく、途中で発見する(してしまう)ことが常だが、もし最後まで曖昧だったら結果は悲惨だ。運用がうまく行かないときの是正もできない。
この本の著者が伝えたい事は建築に劣らず気も遠くなるくらい膨大で複雑だ。人類や宇宙にまつわる壮大なこと。先端技術のもつリスク。我々の日常によくある些末なこと。
それらを一つの主張に方向づけ、わずか400ページで伝達するためには余程のスキルが必要だし、それが無ければ読者は早々に迷路に入り、伝わらないどころか読んでもくれない。

著者がとった「伝達するための4つの方法」は以下である。
①短文化
一文は1行から3行。たまに4行。日本語で50字から200字。短さは主語と述語の関係をわかりやすくし、自動翻訳機による粗訳の精度向上になる。
②接続詞の密度
短文を多彩な接続詞でつなぎながら連続的に主張が展開されるため、読む人の集中力はお付き合いを余儀なくされる。
そして、そのうえ、それとも、だが、しかし、ところが、たとえば、
一見すると、それゆえ、あいにく、だとすれば、とはいえ、たしかに、そもそも、
だからといって、そのため、ただ、では、じつは、もちろん、このように、
というわけで、それでも、とくに、もし、あるいは、それに対して、
③?の連発
短文を接続詞でつなぎまくっても限界はある。短文を「接続詞なしで接続する」冴えた方法。問いかけ形式の短文を連発するのだ。
〇〇の成果を享受し続けることはできるか?
〇〇抜きで手に入れることができるか?
それは〇〇を言いつくろったものにすぎないのか?
〇〇は生き残ることができるのか?
④逸話収集力
主張の多くは短くて興味深い逸話を例に展開される。かなりの時間と労力をかけなければ、コンパクトかつインパクトは表現できない。
あとがきには「古代のシナゴーグから人工知能まで、すべてを確認してくれた、研究アシスタントの○○」とある。

では、やってみよう。
21Lessonnsにおける①から④の手法は建築に応用が可能か?それともアレンジが必要か?だとすればそれは①から④のどの部分か?そもそも建築における短文とは?設計作業における接続詞とは?インパクトのある逸話とは形に材料や形で表せるものか?建築で?を表現出来たら最高に面白いが機能的ではないということか?

もう息切れ。意味不明。。。。N.F

STAY HOME 01


私より100歳上のデンマークの画家、ハマースホイ(1864-1916)は旅好きなのに宅好きだった。
旅か家かの二択で生きて行きたい私にとって、会ったことのない彼は無二の親友の様だ。
彼の画のほとんどは自宅で描かれている。
それも数か所の決まったアングルから時間と家具を変えて。
特にコペンハーゲン旧市街スランゲーゼ30番地の住宅はお気に入りで、立ち退きまでの10年間描き続けた。
今現在STAY HOMEしながら眺める画集は、まるで不動産屋の物件パンフの様だ。

しかしもっとよく見ると隣の部屋、隣の隣の部屋、その向こうの窓、窓越しの街並み、そしてその日その時間の天候までが克明に描かれている。
彼はSTAY HOMEしながら自分の居場所を外の世界に繋げるための「キツい闘い」を立ち止まることなく繰り返していたのだ。
STAY HOMEしながら、いやSTAY HOMEしているから出来た偉業だといえる。
友達になってくれるかなー?N.F

逆光

依頼の有無に関わらず、自主的に追悼文を書くことがある。
感謝や鎮魂が目的ではなく、
成長過程の自分に強い影響を与えた人たちの持っていた
「何か」を言葉にするためだ。
しかし「何か」を突き止めるのは非常に難しい。
何回か書くうちに気付いた。「何か」とは、その人の中にある「矛盾」なのだ。
向きの全く違うヴェクトルが私を混乱させ、考えさせ、結果それが影響力となる。
例えば
明晰さとクレイジーさが同居していたり、
厳しさと寛容さを兼ね備えていたり、
言動不一致が魅力的に映ったり。

1933年宮沢賢治が死んだとき、高村光太郎は次のような短い追悼文を書く。
うちにコスモスを持つ者は、
世界の何処の辺境に居ても、
常に一地方的な存在から脱する。
当時希少だった輸入レコードの多くが海外から岩手に届けられたらしいが、
注文者はどうも宮沢賢治だった。。。という新聞記事を読んだことがある。
花巻という山村における農業への献身と宇宙的規模の構想力。
地中に刺さろうとしているのか、大気圏外を目指しているのか。
この「矛盾」を高村光太郎は端的すぎる言葉にしたのだ。

写真は高村光太郎が住んだ花巻の山居の便所に彫った「光」。
便坊の暗闇に浮かび上がる「光」が反転している、という視覚的で強烈な矛盾。。
高村光太郎のための追悼文「逆光」、、、お題を考えただけで不眠症。N.F

2020年 卒業設計への旅


北海道大学の卒業設計の最終プレゼン会に招かれた。
50人の学生から選ばれた10人が自分の作品を前に思いを語った。

プレゼンを聴いた講評側は少し不満を感じた様だ。
その原因として、講評側の多くはプレゼンテーションの完成度の不足を指摘した。
卒業論文との日程関係など、カリキュラムの仕組み上、
不幸なことに最終的なプレゼンにかける日数は5日も無いとのこと。
物理的な時間の少なさがクオリティに影響するのは当然だ。
この点は大学が改善すべきである。

しかし、私は違う観点から不満を感じた。
「問い」と「答え」の近さ。。。とでも言うべきか。
例えば。
「雨漏りの不安から完全に解放されるには?」という「問い」に対し
「屋根を完全につくりなおす」という「答え」はあり得るが、
これでは「問い」と「答え」が近すぎて提案とはならない。
では、こんな「答え」はどうだろう。
「天の恵みである雨を楽しむために、屋根に大きな穴をあける」
馬鹿げてはいるが、自然と人の距離についてのメッセージは感じる。

当日、私はプレゼンの多くに、この「問いと答え」の近さを感じた。
世界を変える発明や提案のほとんどは、「問いと答え」の途方もない距離からスタートする。
それがその後の人生を左右する。
千里の道も一歩から。念ずれば、いつか叶う。by野村克也

正直言うと、我々pbVの日常業務の大半は「問いと答え」が近いところで凡庸な仕事をしている。
しかし、それを何とか数ミリでも遠くに押し広げようとモガく。
なぜか?それはマンネリや手堅さから事業を開放し、アイデアとウィットをカタチにすることで
笑顔や平和や更なる益を産み出したいからだ。

本来は支離滅裂なくらい、「問いと答え」が乖離しているはずの卒業設計が
この様な手堅さに支配されているのはなぜか?
どうすれば卒業設計本来の「?と!」のイキイキとした距離感を取り戻せるのか?
ここに、途方もない距離を感じたのである。N.F

戦況報告


昨秋あたりから、我々の処理能力を超えた量の仕事を抱えるようになった。
↓↓ざっと、こんな感じである。
・カワイイぬいぐるみショップ
・チーズ工場と店舗
・ソフトクリーム工場と店舗
・農村の公共温泉とホテルのリノヴェ
・旧校舎を活用する玉ねぎ加工工場
・新聞社屋を活用するコーワークオフィス
・コンパクトな賃貸マンション
・末期がん患者のためのグループホーム
・高齢者のための住宅改修
・広大な草原と別荘群
・地方都市の図書館
・人気居酒屋の新装

非常にありがたいことだが、明らかなキャパオーバーの克服が課題である。
しくじらないために考えた取り組みは以下の3点。
①書類の超整理
②ハードワーク
③ワンチーム化

①書類の超整理
これまでのファイル綴じを止め、書類の量が見える透明な多段式の引き出しを2基購入し
遠くからでも読めるラベルを貼り、全体の進行状況を見える化する取組み。

②ハードワーク
忙しさに耐えるというより、目の前の議論や課題に、より強くコミットすることで
「仕事を楽しむための筋力」を増やす取組み。

③ワンチーム化
関係者の皆様と事の大変さ重大さを「楽しく」分かち合うあうための会話の取り組み。

科学的なのか、論理的なのか、根性論なのか、それはさておき
日々のプレッシャーの強さが、なけなしの潜在力を大いに刺激していることだけは実感している。

心の目盛り

以前、知人から印刷業界の機関誌を頂いた。
今は他界した著名なラグビー選手の「心の目盛り」という寄稿があった。
20年前、日本代表の監督をしていた時に日本人と外国人選手の動きの違いに気付いたという。
「立ち位置をもう少し前に」という指示を出すと、日本人は30センチ、外国人選手は1メートルほど移動する。
この時に、日本人の「心の目盛り」の単位がセンチなのに対し、
体格の大きな外国人のそれはメートルなのでは?と直感したという。
どちらが正しいということではないが、併存することによりチームワークに誤差動が生じる。

長い間ラグビー日本代表の強化においては、
文化の違う多国籍な軍団を「一つのチーム」にするという難題があった。
そのためには「心の目盛り」の統一が不可避なのだ。
2019年のワールドカップでは見事にこの難題は克服された。
しかし「心の目盛り」は統一されたのではなく、
なんと選手の国籍を問わず全員に二つの目盛りを装備させるという冴えたアイデアで。

全員が数十センチの短いパスと数メートルの超短いキックに高い精度で反応する。
相手チームから眺めると、二つの目盛りで繰り出される繊細かつ大胆な攻撃に神経を消耗することになる。
日本はタタミを愛する生活である。茶道のお点前においても畳の細かい目が動きの基準となる。
数センチにこだわる繊細さが、数メートルの正確さにも応用されたのだ。。。
という怪しい結論で終えます。N.F