2021年 卒業設計への旅


今年も北海道大学建築学科の卒業設計発表会にゲスト講評者として参加した。
コロナ禍での開催には学生側にも教員側にも大変な試行錯誤と困難があったと思う。
それに報いるために私は全力を振り絞るのだが・・・

私の前に置かれた模型。
捩れた柱、傾いた床、構築物としては崩壊寸前のようである。
昨今のどれも同じに見える美しく完成された駅前再開発に対するカウンターパンチであるという説明だ。

それにしても、この建物でショッピングをするのは命がけだろう。
高所が苦手な人は、お目当てのお店にたどり着くこともできない。
頭上でクレーンに吊られた資材にビクつきながらランチを食べるはめになる。
それはさておき。
この模型が放つ独特の雰囲気には二つの背景がある。
まず、模型作りの雑さ。
次に、建築は「完成するべきもの」だという通念に対する嫌悪感。

後者について、私は強く共感する。建築物は出来上がった直後から色んな経験を強いられる。
予定通りには使われないし、乱暴に扱われ、設備も音を上げる。
外壁は汚れ、陣地争いの末に間取りはあっさりと変形される。
これが現実だ。だから完成という言葉は手続き上だけのことだといえる。
もしそうだとするなら、決して完成しないことを喜び、みんなでそのプロセスを分かち合おう。
それが主張だ。
一見クレイジーだが、一方では建築物の宿命にポジティブに向き合っていると感じた。
伊勢神宮もガウディの教会も完成しない故に、建築物としても観光地としても消費されないのだ。

残念ながらこの案は大賞に選ばれなかった。
それはなぜか?
模型が雑過ぎたのかも知れない。
あるいは「完成しない」という価値を教員側が深く吟味出来なかったからかも知れない。

しかし建築物を「完成させるか」か「完成させない」かは地球と人類にとって大問題なのである。
「完成させる」は次の瞬間に「消耗」につながるが、「完成させない」は「持続」を意味するからだ。
それを巡って、みんなで大喧嘩するくらいのアツい発表会じゃないと「大きすぎる作品」は生まれない。
ということで、今年も一人で妄想と暴走を繰り返す、卒業設計への旅となってしまった。
N.F

大きすぎる作品 その2


私には俳句や和歌についての心得はない。
しかし「奥の細道」で詠まれた句はよく知っている。
文言だけを覚えているのではなく、詠まれた風景も一緒にインプットされている。
それは句が冒険紀行文の中で読者が見たい「ショット写真」の様に扱われているからだ。
江戸深川を出て、仙台・新潟・北陸を巡る5カ月に及ぶ大冒険。
現代の編集者なら、文章に加えて当然ヴィジュアルインパクトを挿入したくなるところだ。

美しい(だけの)句、納まりの良い(だけの)句、洒落の利いた(だけの)句、スキルフルな(だけの)句
を求める当時の風潮に吐き気がした芭蕉のとった戦略は
作品としての句を捨て、紀行文全体を大きな句に化けさせることだった。
当時まだ未知なる東北へのダイナミックでスリリングで切ない冒険こそ、
芭蕉が伝えたかったことなのだ。

俳諧と土木事業における成功の絶頂期、芭蕉はなぜか江戸下町深川のpoorな家に引っ越した。
庭の古池に入る蛙を眺めながら、大冒険紀行文のシナリオを練りに練った(そうだ)。
ルート、名所の位置、出会うべき風景、詠むべき句・・・
なんと冒険に出る前から、展開はデザインされていたのである。
poorな縁側で池の蛙をじっと見つめていたからこそ、手に入ったアイデアなのかも知れない。
「大きすぎる作品」づくりの始まりである。
N.F

大きすぎる作品 その1


画家にとっての作品は絵画で、映画作家にとっての作品は映画だ。
それぞれの作品を通して作家は自らの思いを表現しようと精進する。
しかし、表現したい内容が壮大すぎて、作品形式自体の伝搬力に限界を感じたらどうだろう。
おそらく普段作りなれた形式を捨て、不慣れだが効果的な方法を模索し始めるしかないだろう。
そう。それが「大きな作品」の始まりだ。

フランスの映画作家トリュフォーは、1960年代初頭の映画について、
「映画づくりの原理」が見失われていると感じる。
そこで「原理」の奥義を引き出すべく、
生涯に53本の作品をつくった老匠ヒッチコックに
10時間×5日間という「取り調べの様な」インタヴューを試みる。

1.製作背景は? 2.シナリオの組立は? 3.演出上の課題と解決策は? 4.自己評価は?
各作品について同じ問答を延々を繰り返すうちに、
派手なストーリーやセリフや音響がなくても「映画は映像のみで語り得る」という当たり前の事実が、
老匠の言葉を借りて、わかり易くかつ刺激的に浮き彫りになる。
このインタビューは「取り調べ調書」の様な本として出版され、現代映画作家のバイブルになる。
スコセッシもフィンチャーも黒沢もアンダーソンも、この「取り調べ調書」に夢中になった。
トリュフォーはインタヴューという形式を、語り手任せのヒアリングではなく
「映画づくりの原理」を伝えるための強い意図をもった「大きな作品」として扱ったのだ。

「取り調べ調書」をバイブルに化けさせるという発想と勇気と行動力にこそ学びたい。

世の中にはジャンルを問わず「作品」が溢れかえっている。
自分から美術館や映画館に出向かなくても、FBなどから日々色んな作品がこちらを訪れてくれる。
しかし「大きな作品」に出会うことは稀である。
いや、おそらく大きすぎて見えないのだ。N.F

蔵書再建

ここ数年、当社の蔵書が瀕死状態であった。気づいてはいたが、なすべき術がなかった。
オフィスの本や資料は一体なんのためにあるのか?
そこまで問いなおす必要があるほど、見事に機能していなかった。

「日々の仕事にヤル気を与えてくれるたった一行の文章・たった一枚の図版の収蔵」
この原点が完全に見失われていた。
幸いにも2020年のpbVはコロナ禍にも多忙が続いた。
しかし、それだけに蔵書の機能不全が一気に表面化したのだ。
無節操に増える本や資料を野放しにしていたツケがまわって来たと言える。

12月の最後の3日間、蔵書再建に本気で取り組んだ。
・活用頻度の少ない蔵書約400冊をBOOKOFFに。
・必要なコンテンツが把握しやすい蔵書配置に。

気付けば、あと6時間ほどで2021年になる。
なんとか間に合った。
BOOKOFFされた皆さん、許してください。
選ばれた蔵書の皆さん、年明けからどうか我々に力を貸してください。
そして、皆様も良いお年をお迎えください。

PS
BOOKOFFの買い取り条件に「ページに線を引いた本はNG」とある。
3割くらいはダメかもしれない。。。N.F

〇△✕


大都会の片隅、古い木造の階段を上がると、デニムの端切れに埋もれながら黒縁眼鏡のお兄さんが
ミシンとアイロンを駆使し服を縫製している。
私が入っていくと作業の手を止め、コーヒーを入れてくれる。
ペンキで白く塗られた木の空間。デニムと糸とコーヒーの香りが入り混る独特の雰囲気。
お兄さんが衣服についての持論を展開する。
縫製中のものは、新旧のデニムの端切れを縫い合わせたジャケットである。
すり切れた端切れ、新しく硬い端切れ、色んな形の端切れ、
たくさんの端切れが丈夫そうな糸で打ち抜かれ一体化し、一つの形に生まれ変わる。
〇△✕という呪文の様なブランド名だ。
19歳の私はお兄さんの持論に耳を傾けるものの、目はジャケットに釘付けになる。
気の遠くなるくらいの回りくどい作業を経て作られるミシンの前の物体に夢中だ。
新しいのか、古いのか
存在感が出るのか、消えるのか
風合いがあるのか、ないのか
サイズが大きのか、小さいのか
オリジナリティがあるのか、ないのか
馬鹿げているのか、真っ当なのか

この作業場に入ったのはおそらく2,3回ほどだと思う。
ほとんどの記憶は薄れているが、出現しつつあるジャケットのインパクトは今も強烈だ。
最近の仕事において、ダメージ加工やエイジングのアイデアを思案するうち、
このジャケットが夢に出た。
表面を古く見せたり、周りに馴染ませたりするのとは、完全にちがうモノの有り様。
写経の様に単純で我慢強い取り組みから生まれる「別次元」。。。
もう、形容する言葉が尽きた。

このブランドは今も健在で、回りくどい作業を厭わないことが社是となっている。
写真もHPから頂いた。
N.F

支えるためのゲーム

リーマンショックと呼ばれた不動産投資バブル崩壊の時は、不動産業はもとより
建設業もかなりダメージを受けた。
しかし新型コロナ禍による影響はほとんど無い。今のところは・・・
それどころか膨張や加速の勢いさえ感じる。
理由はおそらくこうだ。
「ここが足踏みすると国を支えるゲームが終了するから」
ゲームとは経済である。

pbVも「支えるゲーム」に積極的に出場することで、下落傾向の建築の価値を高めようともがいている。
以下が目下の対戦相手である。
・廃校直後の中学を別人のように蘇生する農産物の加工場。
・ピンポイント改修で山岳愛好者の要望に応える名湯旅館。
・地元に愛される老舗居酒屋の新店。
・牧場と直結する乳製品の店舗工場。
・開拓スピリットにあふれた青年が手掛けるはじめての牛舎群。
・40年の悲願である町立図書館+スーパーマーケット。
・次の50年に向かって再生する築50年のオフィスビル。
・築20年の高齢者施設の空調と給湯の費用対効果のプランニング。
・茶道家がマンションにつくる夢の茶室。
・伝統的な木風呂の技術でゲストバーに変わる石蔵。
・寂しげな駅前通りにナガレとマタリを捻り出す盆踊り公園。
・アフターコロナに備えて変貌願望をもつ昭和バブル期の町営の温泉ホテル。
・重要文化財として150周年を迎える女学院のデザインプロモート。

これらをバラバラの対戦相手と考えると、ちょっとした業務バブルであり
弱小事務所である我々にはかえって経営危機となる。
対戦相手がどこかでつながっているイメージを持つことで、効率や効果の拡大を狙うのだ。
色んな回路でつながっていることを実感したい。
右から左へ、上から下へ、大から小へ、静から動へ、部分から全体へ、
硬から軟へ、奥から前へ、昨日から明日へ、
会話から図面へ、図面から模型へ、事務所から現場へ、怒りからユーモアへ、雨から晴れへ、
バスから地下鉄へ、口座から振込へ、、、

なんだか良く判らなくなって来たが、対戦相手が少なかろうが多かろうが、
実は一つの大きな「支えるためのゲーム」なのである。N.F

「密」study.2

90年前の都市づくりについての本。もの凄い立派。まるで高額美術書の風格がある。
100年の計としての気合が満ち満ちている。「密」が何をもたらすか、、、まだまだ未来予測の段階である。

 

60~40年前の都市づくりについての本。小ぶりになったが、やはり「専門書」のオーラは半端ない。
つまり街ユーザーの皆さんには、なかなか読んでもらえないシロモノ。
しかし「密」がもたらす混沌が都市の魅力であることも語られている。

 

30年前~最近の都市づくりについての本。一般書を通り越してマガジンの体裁。
季刊くらいのスピード感がないと都市の変化は捉えられない。
「密」とはつまりMeetsであるという、ついに都市づくりの「秘密」にたどり着く。

何のために「密」を考察するのか?
よくわからないまま、もう少し続けてみたい。N.F

「密」study.1

かつて、ある人がこう言った。
「都会の魅力と本質は、賑わいの中の孤独。」
その器である建築には、賑わいと静けさが常に同時に求められるのである。
贅沢な矛盾。作る側の私たちとっては無理難題。

コロナ後の世界について、識者やトレンドリーダーがこう予言する。
「密を回避する行動やテクノロジーが、都会を解体するだろう。」

これに対し、賑わいと孤独の両立に翻弄されてきた私は懇願したい。
「解体宣言の前に、密の操縦方法を教えてください。」

当然誰も教えてくれないので、いつもながら妄想するのである。

「人」という字は互いに支えあう(正確には干渉しあう)ことで、発見やアイデアが生まれる。
自分の殻に閉じこもっててはダメなのだ。
例えばこんな感じ。
↓↓↓

まずはカプセルから抜け出して、気の合う奴らと語り合おう。
コミュニティやサークルやグループの誕生だ。
↓↓↓

しかし、それでは話題や発想や行動が偏ってしまう。
あえて群衆や混乱の中に身を投じ、干渉しあいながら己を磨くことで、本当に大切なことが見えてくるのである。
↓↓↓

写真は8世紀頃の密教の世界観を見える化した曼陀羅。「会」を通じて「智」と「理」の両方が充足された「密な空間」を表している。
密でありながらも、僧の孤独は守られている、ように感じる。
N.F

「10年」で一言


才人が10年単位で世の変化を単純すぎる言葉で表現することがある。
それを聞いた我々は、出し抜かれたという嫉妬とともに「そういえば。。。」と納得もする。

先日、眺めていた建築雑誌の編集テーマはSuper Normal。
オランダを例に「超平凡」とか「凄く地道」な設計活動に焦点を当てたものだ。
この流れは、不動産投資が低調になった2008年以降の建設業界においては必然的だった。
新しい仕事の芽を求めて、小規模の改修工事やまちづくりを持前のアイデアと技術と熱量で
「平凡」や「地道」を超える次元に高める組織が増えたことをSuper Normalという言葉で捉えた。
嫉妬と実感と納得。

去る2月、卒業設計のプレゼン会において、ある学生さんの提案は以下の様なものだった。
「多雪地域の知恵である、雪割庇や風除室や除雪広場などの工夫を
数多くサンプリングし、今後のまちづくりの新たなデザインソースにヴァージョンアップする。」
地味さと野心の無さに好感を抱くと同時に、「地味さを何かに化けさせる」という世の流れに
共通するものを感じたが、残念なことに、それを単純な言葉で言い当てて
その学生さんを勇気づける力量が私には無かった。
Super Normal…これでした。

ちなみにその雑誌の巻頭文では「Super Normalの次はSuper Generic」と予言されている。
「すごく汎用性のある」「みんなが使える」と言ったところだろうか。
コロナ禍で生まれた、ソーシャルディスタンス, ステイホーム, オン/オフライン,
ドライブスルー, ロックダウンなどの自己防衛がSuper Genericなデザインとして
表現されていくことは間違いない。
具体例をあげる力量?、、、まったくございません。(>_<)
N.F

21LESSONSからのレッスン

今回は話題の著作の主張ついて論じることが目的ではないので、内容にご興味のある方は読んでみた頂きたい。悪しからず。
建築は規模の大小に関わらず、膨大な要素が複雑に絡み合うので、たとえ形状が複雑であっても伝達する方法がシンプルかどうかが成否に直結する。
その方法は必ずしも最初から用意されているわけではなく、途中で発見する(してしまう)ことが常だが、もし最後まで曖昧だったら結果は悲惨だ。運用がうまく行かないときの是正もできない。
この本の著者が伝えたい事は建築に劣らず気も遠くなるくらい膨大で複雑だ。人類や宇宙にまつわる壮大なこと。先端技術のもつリスク。我々の日常によくある些末なこと。
それらを一つの主張に方向づけ、わずか400ページで伝達するためには余程のスキルが必要だし、それが無ければ読者は早々に迷路に入り、伝わらないどころか読んでもくれない。

著者がとった「伝達するための4つの方法」は以下である。
①短文化
一文は1行から3行。たまに4行。日本語で50字から200字。短さは主語と述語の関係をわかりやすくし、自動翻訳機による粗訳の精度向上になる。
②接続詞の密度
短文を多彩な接続詞でつなぎながら連続的に主張が展開されるため、読む人の集中力はお付き合いを余儀なくされる。
そして、そのうえ、それとも、だが、しかし、ところが、たとえば、
一見すると、それゆえ、あいにく、だとすれば、とはいえ、たしかに、そもそも、
だからといって、そのため、ただ、では、じつは、もちろん、このように、
というわけで、それでも、とくに、もし、あるいは、それに対して、
③?の連発
短文を接続詞でつなぎまくっても限界はある。短文を「接続詞なしで接続する」冴えた方法。問いかけ形式の短文を連発するのだ。
〇〇の成果を享受し続けることはできるか?
〇〇抜きで手に入れることができるか?
それは〇〇を言いつくろったものにすぎないのか?
〇〇は生き残ることができるのか?
④逸話収集力
主張の多くは短くて興味深い逸話を例に展開される。かなりの時間と労力をかけなければ、コンパクトかつインパクトは表現できない。
あとがきには「古代のシナゴーグから人工知能まで、すべてを確認してくれた、研究アシスタントの○○」とある。

では、やってみよう。
21Lessonnsにおける①から④の手法は建築に応用が可能か?それともアレンジが必要か?だとすればそれは①から④のどの部分か?そもそも建築における短文とは?設計作業における接続詞とは?インパクトのある逸話とは形に材料や形で表せるものか?建築で?を表現出来たら最高に面白いが機能的ではないということか?

もう息切れ。意味不明。。。。N.F