自己中心新聞


企業が自社の活動をクライアントや世の中に対しアピールするため会社案内をつくって手渡しをする。
ペーパーレスの時代に「現物渡し」とは環境に優しくないが、相手のハートに届かせる確かな戦法ではある。

さて、頂いた会社案内を開いてみると、、、
社長さんのお言葉や、目玉となる作品や実績が飾られている。
もしそれが良くできた編集だった場合には
「あれは貴社のお仕事だったんですかあーーー!」とか、
「こんなマニアックなこともされているんですねっ!」的な感動から飛び火状に会話が展開する。
人と人のバリアが破壊されるこの「瞬間」のために会社案内はあるのだ、、、
と、私は勝手に思い込んでいる。

さて、pbVも会社案内を求められることがある。
しかし、今のところお渡しできるものは無い。
「しかたない、何か作るか・・・」
これがぬかるみの世界への危険な入口だ。毎度のことながら。
バリアを如何に破壊し、我々の取り組んでいる複雑で楽しい世界に引きずり込むのか。
例により、七転八倒の末に手に入れたアイデアは「新聞」。
編集方針は以下である。
・会社案内とは悟らせない
・新聞のページ構成を遵守する
・自己中心的な記事で埋め尽くす

世の波に翻弄され、悩みながらも、たまにカッコもつけたいと願う。
この様な自己中心的な当社のアイデアや妄想が詰まっている。
暇なのではありません。おふざけでもありません。
人と人のバリアを破壊するための挑戦なのである。
挑戦のつもりなのである。

それにしてもテレビ欄や小説欄をどの様に料理すべきか・・・
「新聞づくり」に翻弄される日々が続く。
N.F

アート野郎

当社には宝モノがいくつかある。
そのうちの一つを今日ここに紹介させて頂く。
「東京芸術大学美術学部建築学科 1997年度作品集」
卒業生から贈呈されて以来20年以上、日々の仕事で「枯れたかな」という自覚症状が出た場合に手に取る。

カードがリングで束になっているだけの簡単な構造だが、
中身は「本気さ、アツさ、不可解さ、そして遊び」が詰まっている。
公告、見本帳、組立キット、落書き、薬事処方、返信用はがき、通告文など様々な体裁を利用して
見るものを人と空間にまつわる物語や事件に誘う。

中でも最高にバカバカしく崇高な御提案はこれだ。

地道に外側の線から切り抜いて重ねると、、、富士山になるという組立キット。
ターゲット明確化社会にあって、これほどターゲット不明な提案はない。

この作品集は1500円の定価がついている。アメ横商店街など上野界隈のお店や企業が
毎年喜んで買ってくれるらしい。

私は「忖度とエビデンスとターゲット」という出世の3要件には殆ど反応できないダメ男だが、
アート野郎の冴えたアイデアとそれをストレートに表現する勇気には、まだまだ反応できる。
N.F

REMからの伝言


浮かんでは消え、姿が見えたと思ったら霧の中に去り行く「冴えたアイデアたち」。
それらをどの様に捕獲し、仕事や社会に還元するのか、、、
非常に難しい問題だ。

すでに亡くなったある天才作家がTVで日常の悪戦苦闘を語っていた。
彼に才をもたらしたものは酒。
彼に死をもたらしたものも酒。
酩酊し眠りにつく寸前に奇跡の発想が降りてくるらしい。
朝になると忘れるので枕元にノートを用意し、鉄の意志で何とか文字にして眠る。
目覚めたとき、昨夜の発想の微かな記憶と大きな期待を胸にノートを開くと、、、
「れいぞうこ」とある。
「…??? 」
「はてさて、これはどうしたものやら。」
途方に暮れてまた酒をあおる。

中島らもさん(1952-2004)のこの話を聞いて、閃いた。
冴えたアイデアの殆どは未明のREM睡眠時に訪れる。
私としてはこれを何とか捕獲したいのだ。
そこでノートではなくスマホを手元に置き、
その時が来たら鉄の意志でスマホを立ち上げ、
メールに書き留めて私のPCアドレスに送信してみた。
そして深い2度寝に落ちたのだった。

かくして数時間後、仕事場でパソコンを立ち上げ、
冴えた発想の余韻とともにメールをチェックしてみた。
「覚醒モードの私」からの伝言は、、、
「色んなものの化合物」とあった。
「…???」
「はてさて? これはどうしたものやら。」
しかし、これくらいの「?感」を我々は今まさに必要としているのだ。
その後、この習慣を続けるうち「?」が「!」に変わる確率が増えてきた。
N.F

「松の葉」の可能性

私がここ数週間、公私にわたり大変お世話になっている松葉杖。
やっと仲良くなれたのに、もうお別れだ。
仲良くなるまでには、お互い色々な努力が必要だった。
また、普段の当たり前の生活態度に対する気づきもあった。
しかし、これらのことは私と松葉杖だけの甘い思い出として語らないことにする。

覚えておきたいことは、松葉杖の成長と進化である。
松葉杖はもちろん「松の葉」の形に由来するが、、、
誰が名付けたか、妙名である。

私のパートナーは現在の汎用型で、アルミとゴムと樹脂により軽快に出来ている。
とくに杖先の形状が工夫されている。
二重の吸盤構造になっており、床に吸い付く様に接地し、ほとんど滑らない。

実は、20年前にもお世話になったことがある。その時は木製の重量感があるタイプだったが
その木製杖の基本を踏襲しながら、高さ調節や握りのグリップ感など、
ディテールが進化し、かなり使いやすくなっている。

さて、松葉杖はこの先どこへ向かうのか?
ネットで検索すると、、、

・体重を肘にも乗せるので、支点が分散し楽に歩ける。
・ボタン操作で腕を固定したりフリーにしたり、手も使い安くなる。

そして、さらにその先には、、
・転んでもエアバッグが出る。
・カメラの自撮り棒が設置できる。
・傘も固定できる。
・GPSを搭載する。

こうなったら、無限の可能性に向かって猛進あるのみ。
・フォグランプで夜でも安心お散歩。
・杖先はタイヤモードを追加して自動走行。
・ステレオスピーカーとブルートゥースを搭載。
・痴漢撃退電気ショックもつけたら女性にも人気。
・格納式の羽根とマイクロジェットをつけたら通院はひとっ飛び。
・自動翻訳機もつけたら海外出張の必須アイテムに。

「松の葉」の形は至ってシンプルなだけに、その可能性は無限だ。N.F

2021年 卒業設計への旅


今年も北海道大学建築学科の卒業設計発表会にゲスト講評者として参加した。
コロナ禍での開催には学生側にも教員側にも大変な試行錯誤と困難があったと思う。
それに報いるために私は全力を振り絞るのだが・・・

私の前に置かれた模型。
捩れた柱、傾いた床、構築物としては崩壊寸前のようである。
昨今のどれも同じに見える美しく完成された駅前再開発に対するカウンターパンチであるという説明だ。

それにしても、この建物でショッピングをするのは命がけだろう。
高所が苦手な人は、お目当てのお店にたどり着くこともできない。
頭上でクレーンに吊られた資材にビクつきながらランチを食べるはめになる。
それはさておき。
この模型が放つ独特の雰囲気には二つの背景がある。
まず、模型作りの雑さ。
次に、建築は「完成するべきもの」だという通念に対する嫌悪感。

後者について、私は強く共感する。建築物は出来上がった直後から色んな経験を強いられる。
予定通りには使われないし、乱暴に扱われ、設備も音を上げる。
外壁は汚れ、陣地争いの末に間取りはあっさりと変形される。
これが現実だ。だから完成という言葉は手続き上だけのことだといえる。
もしそうだとするなら、決して完成しないことを喜び、みんなでそのプロセスを分かち合おう。
それが主張だ。
一見クレイジーだが、一方では建築物の宿命にポジティブに向き合っていると感じた。
伊勢神宮もガウディの教会も完成しない故に、建築物としても観光地としても消費されないのだ。

残念ながらこの案は大賞に選ばれなかった。
それはなぜか?
模型が雑過ぎたのかも知れない。
あるいは「完成しない」という価値を教員側が深く吟味出来なかったからかも知れない。

しかし建築物を「完成させるか」か「完成させない」かは地球と人類にとって大問題なのである。
「完成させる」は次の瞬間に「消耗」につながるが、「完成させない」は「持続」を意味するからだ。
それを巡って、みんなで大喧嘩するくらいのアツい発表会じゃないと「大きすぎる作品」は生まれない。
ということで、今年も一人で妄想と暴走を繰り返す、卒業設計への旅となってしまった。
N.F

大きすぎる作品 その2


私には俳句や和歌についての心得はない。
しかし「奥の細道」で詠まれた句はよく知っている。
文言だけを覚えているのではなく、詠まれた風景も一緒にインプットされている。
それは句が冒険紀行文の中で読者が見たい「ショット写真」の様に扱われているからだ。
江戸深川を出て、仙台・新潟・北陸を巡る5カ月に及ぶ大冒険。
現代の編集者なら、文章に加えて当然ヴィジュアルインパクトを挿入したくなるところだ。

美しい(だけの)句、納まりの良い(だけの)句、洒落の利いた(だけの)句、スキルフルな(だけの)句
を求める当時の風潮に吐き気がした芭蕉のとった戦略は
作品としての句を捨て、紀行文全体を大きな句に化けさせることだった。
当時まだ未知なる東北へのダイナミックでスリリングで切ない冒険こそ、
芭蕉が伝えたかったことなのだ。

俳諧と土木事業における成功の絶頂期、芭蕉はなぜか江戸下町深川のpoorな家に引っ越した。
庭の古池に入る蛙を眺めながら、大冒険紀行文のシナリオを練りに練った(そうだ)。
ルート、名所の位置、出会うべき風景、詠むべき句・・・
なんと冒険に出る前から、展開はデザインされていたのである。
poorな縁側で池の蛙をじっと見つめていたからこそ、手に入ったアイデアなのかも知れない。
「大きすぎる作品」づくりの始まりである。
N.F

大きすぎる作品 その1


画家にとっての作品は絵画で、映画作家にとっての作品は映画だ。
それぞれの作品を通して作家は自らの思いを表現しようと精進する。
しかし、表現したい内容が壮大すぎて、作品形式自体の伝搬力に限界を感じたらどうだろう。
おそらく普段作りなれた形式を捨て、不慣れだが効果的な方法を模索し始めるしかないだろう。
そう。それが「大きな作品」の始まりだ。

フランスの映画作家トリュフォーは、1960年代初頭の映画について、
「映画づくりの原理」が見失われていると感じる。
そこで「原理」の奥義を引き出すべく、
生涯に53本の作品をつくった老匠ヒッチコックに
10時間×5日間という「取り調べの様な」インタヴューを試みる。

1.製作背景は? 2.シナリオの組立は? 3.演出上の課題と解決策は? 4.自己評価は?
各作品について同じ問答を延々を繰り返すうちに、
派手なストーリーやセリフや音響がなくても「映画は映像のみで語り得る」という当たり前の事実が、
老匠の言葉を借りて、わかり易くかつ刺激的に浮き彫りになる。
このインタビューは「取り調べ調書」の様な本として出版され、現代映画作家のバイブルになる。
スコセッシもフィンチャーも黒沢もアンダーソンも、この「取り調べ調書」に夢中になった。
トリュフォーはインタヴューという形式を、語り手任せのヒアリングではなく
「映画づくりの原理」を伝えるための強い意図をもった「大きな作品」として扱ったのだ。

「取り調べ調書」をバイブルに化けさせるという発想と勇気と行動力にこそ学びたい。

世の中にはジャンルを問わず「作品」が溢れかえっている。
自分から美術館や映画館に出向かなくても、FBなどから日々色んな作品がこちらを訪れてくれる。
しかし「大きな作品」に出会うことは稀である。
いや、おそらく大きすぎて見えないのだ。N.F

蔵書再建

ここ数年、当社の蔵書が瀕死状態であった。気づいてはいたが、なすべき術がなかった。
オフィスの本や資料は一体なんのためにあるのか?
そこまで問いなおす必要があるほど、見事に機能していなかった。

「日々の仕事にヤル気を与えてくれるたった一行の文章・たった一枚の図版の収蔵」
この原点が完全に見失われていた。
幸いにも2020年のpbVはコロナ禍にも多忙が続いた。
しかし、それだけに蔵書の機能不全が一気に表面化したのだ。
無節操に増える本や資料を野放しにしていたツケがまわって来たと言える。

12月の最後の3日間、蔵書再建に本気で取り組んだ。
・活用頻度の少ない蔵書約400冊をBOOKOFFに。
・必要なコンテンツが把握しやすい蔵書配置に。

気付けば、あと6時間ほどで2021年になる。
なんとか間に合った。
BOOKOFFされた皆さん、許してください。
選ばれた蔵書の皆さん、年明けからどうか我々に力を貸してください。
そして、皆様も良いお年をお迎えください。

PS
BOOKOFFの買い取り条件に「ページに線を引いた本はNG」とある。
3割くらいはダメかもしれない。。。N.F

〇△✕


大都会の片隅、古い木造の階段を上がると、デニムの端切れに埋もれながら黒縁眼鏡のお兄さんが
ミシンとアイロンを駆使し服を縫製している。
私が入っていくと作業の手を止め、コーヒーを入れてくれる。
ペンキで白く塗られた木の空間。デニムと糸とコーヒーの香りが入り混る独特の雰囲気。
お兄さんが衣服についての持論を展開する。
縫製中のものは、新旧のデニムの端切れを縫い合わせたジャケットである。
すり切れた端切れ、新しく硬い端切れ、色んな形の端切れ、
たくさんの端切れが丈夫そうな糸で打ち抜かれ一体化し、一つの形に生まれ変わる。
〇△✕という呪文の様なブランド名だ。
19歳の私はお兄さんの持論に耳を傾けるものの、目はジャケットに釘付けになる。
気の遠くなるくらいの回りくどい作業を経て作られるミシンの前の物体に夢中だ。
新しいのか、古いのか
存在感が出るのか、消えるのか
風合いがあるのか、ないのか
サイズが大きのか、小さいのか
オリジナリティがあるのか、ないのか
馬鹿げているのか、真っ当なのか

この作業場に入ったのはおそらく2,3回ほどだと思う。
ほとんどの記憶は薄れているが、出現しつつあるジャケットのインパクトは今も強烈だ。
最近の仕事において、ダメージ加工やエイジングのアイデアを思案するうち、
このジャケットが夢に出た。
表面を古く見せたり、周りに馴染ませたりするのとは、完全にちがうモノの有り様。
写経の様に単純で我慢強い取り組みから生まれる「別次元」。。。
もう、形容する言葉が尽きた。

このブランドは今も健在で、回りくどい作業を厭わないことが社是となっている。
写真もHPから頂いた。
N.F

支えるためのゲーム

リーマンショックと呼ばれた不動産投資バブル崩壊の時は、不動産業はもとより
建設業もかなりダメージを受けた。
しかし新型コロナ禍による影響はほとんど無い。今のところは・・・
それどころか膨張や加速の勢いさえ感じる。
理由はおそらくこうだ。
「ここが足踏みすると国を支えるゲームが終了するから」
ゲームとは経済である。

pbVも「支えるゲーム」に積極的に出場することで、下落傾向の建築の価値を高めようともがいている。
以下が目下の対戦相手である。
・廃校直後の中学を別人のように蘇生する農産物の加工場。
・ピンポイント改修で山岳愛好者の要望に応える名湯旅館。
・地元に愛される老舗居酒屋の新店。
・牧場と直結する乳製品の店舗工場。
・開拓スピリットにあふれた青年が手掛けるはじめての牛舎群。
・40年の悲願である町立図書館+スーパーマーケット。
・次の50年に向かって再生する築50年のオフィスビル。
・築20年の高齢者施設の空調と給湯の費用対効果のプランニング。
・茶道家がマンションにつくる夢の茶室。
・伝統的な木風呂の技術でゲストバーに変わる石蔵。
・寂しげな駅前通りにナガレとマタリを捻り出す盆踊り公園。
・アフターコロナに備えて変貌願望をもつ昭和バブル期の町営の温泉ホテル。
・重要文化財として150周年を迎える女学院のデザインプロモート。

これらをバラバラの対戦相手と考えると、ちょっとした業務バブルであり
弱小事務所である我々にはかえって経営危機となる。
対戦相手がどこかでつながっているイメージを持つことで、効率や効果の拡大を狙うのだ。
色んな回路でつながっていることを実感したい。
右から左へ、上から下へ、大から小へ、静から動へ、部分から全体へ、
硬から軟へ、奥から前へ、昨日から明日へ、
会話から図面へ、図面から模型へ、事務所から現場へ、怒りからユーモアへ、雨から晴れへ、
バスから地下鉄へ、口座から振込へ、、、

なんだか良く判らなくなって来たが、対戦相手が少なかろうが多かろうが、
実は一つの大きな「支えるためのゲーム」なのである。N.F