2013年6月アーカイブ

何を売るのか?

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どんな業態であれ「売りもの」がある。
当たり前すぎる話しだが、自分が「何を売るべきか」を客観視するのは案外難しい。
 
建築家の先生なら設計作品が売りものだ。
作家先生なら出版作品だ。
家具もランドスケープもすべて同じだろう。
 
しかし、自らの作品に滑稽なほどの深くて細かい意味づけをし過ぎて、
買い手にとっては「何だかワケがわからん」ということはよくある。
こだわりのある先生方はかなりの確率でそのトラップにかかる。
 
我々もそうだ。
標榜している「小さな建築」を深堀りし過ぎるあまり、その社会的な波及効果が
帰って伝染しにくくなることは、常に要注意事項だ。

 
ここからの話は比較批評や批判ではない。己への戒めの意味もこめて書きたい。
 
先日、旭川の家具イベントに赴いた。
開催期間中、在旭企業は自社製品のプレゼンに注力した。
ショールームや工場見学などを通して、商品価値のアピールに全力を注がれていた。
 
おおまかに2つの企業があると感じた。
 
  理念をうる企業。
  製品をうる企業。
 
前者はごく少数で、ほとんどが後者だ。
 
その判別方法はシンプルだ。

  値札が掲示されているかどうか。
  製品情報が掲示されているかどうか。
 
値段や、加工技術自慢などの製品情報が一切なければそれは「理念を売る企業」である。
 
理念か製品か「どちらを売るべきか?」については答えはないが、
私は個人的には「理念」こそが売るべき対象だと考えている。
 
写真左は「理念を売る企業」のショールーム。右は「製品を売る企業」だ。
 
理念とは創業の精神であり、それ以来の商品開発の履歴だといえる。
写真左のショールームにはそれ以外の情報は一切なかった。
 
企業の理念が定着すればそれが分母となり、個別のプロジェクトはその分子として
社会に受け入れられる。 
製品自体の値段が高くても、企業理念に大きな価値を感じるなら、相対的に「廉価感」は出る。
 
この場合、製品の値段には企業理念への「賛同報酬」が含まれ、それが次なる製品開発への原資となる。
 
個別の作品の特異性や優位性にばかり注力し、低コスト化につきあうと
結局は消耗してしまう。
 
家具フェスでご尽力された関係者のみなさん、生意気いってすみません。(-_-;)
 
これは理想論かも知れない。
 
「理念なんか、誰がいくらで買いまんネン? えーどうダス? どーなんダス?えーあんさん?」
 
大阪商人に詰め寄られたときに備えて、今後も理想論に凄みを加えいく所存だ。(^_-)
N.F
 

 

水平と垂直

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水平垂直.jpg
展開したかった話がいつの間にかヘンな方向に転がっていくことがある。

賽銭箱が初めて絵に登場した「一遍上人絵伝」。
一遍が誰かはネットで検索して頂くとして、私はこの絵を通じて賽銭箱の話がしたかった。
 
相手は著名(だといわれている)イタリアの図書館建築の敏腕女性プロデューサー。
 
私 「この絵の真ん中にある賽銭箱は高性能の経済循環装置なんです」
プ 「・・・」
 
私 「投げ込まれたお金が寺の環境改善や縁側下のホームレスの救済にも使われる」
プ 「面白いけど、偉い坊さんから小僧さん、ホームレスまで、描かれた身分の垂直関係がいやだわ」
 
私 「賽銭箱はその垂直関係を壊して参加を誘発し、水平をつくる装置なんですよ」
プ 「私のつくる建築は、完全に水平な人間関係を目指してるのよ。偉い坊さんは不要よ!」
 
私 「だからこの賽銭箱のような建築を発想する必要があるんです!坊主の話はどうでもいい。」
プ 「でも、ホームレスも畳にあがるべきよっ!」
 
 
気持ちのいいほど、話はかみ合わなかったが得るものもあった。
 
一遍というクレイジーな僧は全国行脚し、日本の垂直的な社会構造を水平に変革しようとした。話しながらその事実に気づいた。
でも賽銭箱の話も伝わらないのに一遍のことなんて伝えようがない。
(だから絵伝として後世に伝えようとしたのだが・・・)
 
そのプロデューサーは滑稽なくらいの水平的な人間社会が生み出す効果を信じていた。
図書館はそれを実現するための装置なのである。
  
だから賽銭箱と図書館は実はまったく同じ目的をもったものになるのだが、
魅力的な絵巻物の模写がかえって話をややこしくしてしまった。
 
気まずい雰囲気はビールで完全に解消されたが、
水平、垂直、参加、循環、装置、賽銭、一遍、公共、プロデュース魂・・・
 
そのようなことについて、より鮮明に考える糧となった。
 
展開したい話がヘンな方向に転がっても、あわててはいけない。
むしろ転がりゆく方向へ身も心も委ねていくことで、発見と実感をえられるのだ!
 
なーんて、単に語学力の欠如だったりして。N.F

建築VSえほん.jpg
建築はどこまで小さくできるか?
 
誰からも全く求められてはなかったが、そこに未来への「何か」があると直感した。

当初は小さくするための方法がわからず苦戦した。
 
デザインにこだわった小屋や家具のようなものが出来ただけで、退屈だった。
 
ところが様々な産業について勉強するうちに「何か」が見えてきた。
 
「何か」とは何か?
  - 非常に微細な技術やアイデアこそが、都市や環境という非常に大きなものへの影響力をもつ。
 
眼球のウロコがはがれた。

建築のような屏風。建築のようなラグビージャージ。建築のような紙袋。建築のような本。
 
現在は「建築のような絵本」というアイデアに夢中だ。
 
建築の面白さを子供向けの絵本にするのではない。
 
建築として絵本をつくりなおしたら、全く違う絵本が生まれるのでは・・・
そう思ってしまったからしょうがない。
  
書物は数千年をかけ岩→粘土→蝋→紙など素材の変遷とともにデバイスの形態を変化させてきた。今世紀に入り形のないデジタルソースに行きつこうとしている。
ついに実体が消えるのだ。
  
我々はこの状況に向き合い「小さな建築 VS 絵本」のマッチアップに取り組んでいる。
 
現代社会においてあらゆるモノの実体が消える状況にこそ建築がコミットする価値がある。
 
価値というより、義務、いや使命、いやビジネスチャンス。
 
まあ、いいです。
 
2か月後には公開される。
 
図版は、その中の1カット。

全140カット。今までの絵本とは似ても似つかないものになってしまった。
 
1万年前、文字も言葉もない時代の壁画が現代のデジタルデバイスと掛け合い漫才をする。
そういう内容だ。
やってることがアホなんだか冴えてるのか自分でも判然としない。
 
 「例によってお前のいう事はわからん。」
 「ていうか、ちゃんと建築をつくれ!」
 「小さな建築の効果をわかりやすく説明しろっ!」
 「投資効果はあるのか?」
 
ご意見はつきない。すこしずつ明らかにしていきたい。N.F