2011年8月アーカイブ

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懐.jpg
宮城県は松島にある瑞巌寺は伊達正宗が建てた。私はこの建築が好きである。心からカッコいいと感じている。
 
視覚的にワクワクさせる回廊。それを支える床材の組み方。建具のサイズが奏でる光の繊細さ。
職業上、私は棟梁のセンスの凄さに一目置いて来た。しかしその魅力は建物本体だけに起因するものではないことにも感づいていた。
 
 
一言でいうと「懐(ふところ)」。
 
 
松島は瑞巌寺建立以前より霊場であり修行場であった。門から本堂まで200mをストレートに走る参道は杉木立に囲まれている。その両サイドには多くの石窟があり、修行の場となっていた。本堂はさらにその奥の懐に抱かれている。
 
瑞巌寺は時空間上につくり込まれた「懐」に、巧みに、繊細に、小さくセットされていたのだ!!! 
 
・・・と、わかった様な顔で、しかもイイ気になっていた。
 

3月11日
 
 
海岸線に近接する瑞巌寺が殆どダメージを受けることもなく避難所になっていたことを知った。
そのわけを知りたくて、訪れてみた。
 
「懐」の意味は深かった。
石窟が連続しているということは、この土地が岩盤からなることを意味する。その岩盤は海面においては「日本三景」を演出する役者として沖まで点状に浮かんでいる。
 
しかし、海中においては隆起する岩の塊として津波をブロックする主役になったのだ。減衰しながら瑞巌寺の参道まで押し寄せた津波は、さらに密集する杉木立によって勢いをそがれ、遂にはほとんど海抜差のない本堂には到達しなかった。
 
これが「懐」の正体であり、それを活かした瑞巌寺の凄さでもある。
 
廃墟や瓦礫の中にたたずみ、コウベをたれ、痛みを実感し、情景を記憶に刻むことは重要だ。しかし別のアタマをフル回転させ「なぜ、生き残ったか」を問うことはさらに大切だ。
 
それがモノづくりにとって、道しるべであり糧なの
だから。
N.F
*現在、瑞巌寺本堂はメンテナンス中で拝観は×です。

Right-size

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the right size.jpg
これより大きくても小さくても具合が悪い、そんな絶妙の規模。
 
これがRight-sizeというやつだ。
 
日本語では「適格な規模」という所か。
 
モノづくりに際し、常に悩むのはこのRight-sizeについてだ。
あらゆる企画や計画の大半はこの一点に注力される。
 
それはなぜか?
それはRight-sizeを決める要因が多くて、しかも各々が事業上の重みをもつからだろう。
 
そしてその総合的な解答はsizeにこそ収斂されるべきだ。
決して直接的にdesignには落とし込めない。
 
我々の仕事においてRight-sizeは、敷地、時間、お金、人材、マーケット・・・など、
いくつかの変数のセメギ合いから決断される。
 
セメギ合いの成果を明快なものにするために、
我々は多くのパターンを研究し、形にする。
 
これは建築に限ったことではない。
 
国家、地域、会社、クラブなど、あらゆる組織体の運営でRight-sizeは重要である。
 
それを具体的に検討できる人間と決定できる人間。
この二つの能力があれば、Right-sizeは意味と力を持ち得る。
 
 
 
合計4人でも転覆しそうだし、2人でも不安定。
老婆の船頭が立ちながら操るたった一本の櫂。
おまけに、時々刻々変化する海の波動。
 
佐渡のタライ船にゆられながら、20数年前の私の脳ミソには
Right-sizeという言葉は浮かぶはずもなかった。
 
しかし時を隔てた現在、いくつかのプロジェクトを通して
Right-sizeの重要性を実感している。
 
p.b.Vにとって最新鋭の問いで、しかも強敵である。
N.F
オフィスか、基地か.jpg
「殿、これがフランス式最新鋭の基地にござりまする。」
 
「ふむ、新しい奉行所はこの線で。」
 
ということで、箱館五稜郭は築かれた。
 
星形が重層する形状によりランドスケープは複雑化し、敵砲弾の的を絞らせない効果がある。
 
奉行所はそのランドスケープの中心部分に建築された。維新後に取り壊されたが、昨年観光スポットとして再建された。
 
非常に生真面目な建築物で、徳川社会を象徴するような設計になっている。
 
工法やパーツは標準化されており、建具や金物なども全国一律のデザインで統一されている。

間取りや動線は役職や地位がそのまま立体化された様な構成で、ミもフタもない。 
 
徳川デザインの堅さと、人を飼い馴らすオフィスの怖さを実感しながら、クロスワードパズルのような部屋と廊下をさ迷った。
 
 
 
だが、思い出した。基地であることに。
 
最新の理論に基づくランドスケープと、旧態依然で余りにも無防備な奉行建築。

そのアンバランスさに気をとられ、ガイドさんの説明が途中から、頭に入らなくなって来た。
 
織田や豊臣なら外敵の脅威に対抗するため、建築にもっと「緊張」を与えたに違いない。同時にその代償として「緩和」も仕込んだと想像する。
 
何を受け入れ、何を死守するのか。幕末も現在も変わらぬ問いである。
 
 
でも、そんなことどうでもいいんじゃない?だって賑わってるんだから。
 
だよネー。だよネー。
 
色んな意見が聞こえる。問いは尽きない。N.F