2010年5月アーカイブ

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家具のカンディハウス社主催のトークイベントに出る。             
                                 
お題はVINTAGE(ヴィンテージ)。
                       
元来ワインの製造年を表すだけのこの言葉は、逸品モノ、年代モノなど様々な意味をまとっている。                      
                                                               
このイベントには「使い続けられるものとは・・・」という副題がついている。
この副題を切り口に、私は意味でくるまれた「VINTAGE」という単語を丸裸にしたいと考えている。
                                   
有名無名を問わず「何度でも、どこからでも」アクセスできる映画や書物、音楽が私にはある。 それらは特に感動的でも美的でもない。
しかしアクセスする度に、未知の発見・解放・勇気・圧力を与えてくれる。
                           
正確に表現するなら、映画・書物・音楽というよりその中に含まれるショット・テキスト・フレーズの断片ということになる。                        
無数にアクセスするうちに全体のストーリー性は鮮度を失い、「断片」だけが何かを語りかけてくる。

長い年月を隔てて見直しても、全く同じ「断片」が輝いてみえる。そこで「己」(おのれ)の輪郭を突きつけられるハメになる。良くも悪くも・・・
                                                       

私にとって「使い続けられる」とはそういうことである。                                    

この続きに興味のある方は、イベントでお会いしましょう。
                                                            
                                       
「北海道のVINTAGE」使い続けられるものとは・・・
                                
日 時 2010年6月11日(金) 17:00~
会 場 カンディハウス道央支店3Fショールーム
   (札幌市東区北13条東1丁目1-15)
問合せ http://www.condehouse.co.jp/news/news.php?n=2170
                            

色を五感で楽しむ

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「着物」と「色」を掛け合わせたイベントを企画している。


いたるところにあふれる「色」
人は日常的に、時には意識的に「色合わせ」を行う。
洋服のコーディネート、食事の取り合わせ、デザインの配色 などなど
ましてや着物は色のオンパレード、配色の上級編といえる。


この企画のカラー部門メンバーから「色を五感で楽しむ」という言葉が出てきた。
「色を五感で楽しむ」?????


「色」と言葉にすると平面的な配色を思い浮かべてしまうが、私たちの生活する空間では色と認識しないうちに五感で認識している。
自然の色、光の色、風にもなぜか色を感じることがある。


建築を設計するときもひとつひとつのパーツに色を与え、全体の空間をつくる。
同じ白でも黒系、青系、赤系、黄系と様々な白が存在する。並べれば違いは歴然としているが、1色で見るとそれは「白」でしかない。しかしそこには隠れた配色があり、クールな白、暖かい白など、知らぬ間に五感で感じ取っているのである。


色には気持ちに影響を与えるパワーが潜んでいる。
好きな色合いの空間に身をおくのは、心が豊かになるものだ。
働く場所、休む場所、想像の場所、それぞれ必要な色は違ってくる。


札幌市庁舎ロビー改装プロジェクトでも「Sapporoカラー」からパワーをいただく。
鈴蘭、ふきのとう、樹氷、小豆、開拓使など70色ひとつひとつに札幌に縁のあるネーミングがついている。
言葉と色から風景が思い浮かぶようだ。
紙媒体ではなく、建築物という空間に色が置き換えられたとき、人々に与える影響、色のパワーは大きい。


今回のイベントでは「着物」と「食」について色に挑戦する。

着物は何枚もの重なりから色の掛け合わせを楽しむ。
食事も明快な色の違いから「五味五色」を楽しむ。

大きな空間による色のパワーとは違い、身につけるスケールで色を考えること。
これは普段と違った観点で色と向き合うことができそうだ。
Y.T.

commit

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先住の民のcise(=住拠)の建設は1st Room(=原野)を強く意識することが起点となる。
                        
あるじ自らが地勢や地縁に積極的に働きかけなければ、建設地も材料の調達もままならない。つまり環境や歴史に「commit(=関与)する力」が試される建築なのである。
                         
そしてコミットするべき対象はkamui(=神)という不可視の存在にまで及ぶ。
                                                 
コミットするためには対象を熟知し感じることが必要だ。
多くの経験や知識は無論のこと、何よりも不可視の脅威に対する感度が重要となる。     
                        
笹、葦、ぶどう蔓、シナ縄、はんのき、ミズナラ・・・自然環境にcommitすることで獲得できる素材たちは、幾百年を超えて正確に反復される建設方法を支えてきた。
                      
長期に渡り反復出来たのは、先住民が「注意深いcommit」をしてきたからだろう。                              
                                 
建築物としてのciseは非常に脆弱である。 そしてその脆弱性は単なる物理的な耐久性という意味をはるか超える。
      
儀式として、主が亡くなると家は燃やされる。現物としてのciseは仮の姿であり、住人の消滅とともに不可視の脅威に向かって「返還」されるのだ。           
                                                              
ciseの恒久的仮設性は、不可視の脅威まで視野に入れた「注意深いcommit」の賜物なのだ。
                                                                         
「近代化」の恩恵に慣れた我々は、高度なモノづくりのコンセプトとして
強く、深く、注意深く「commit」する力を手中に納めなければならない。

素材漫才2

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大きなピンナップボードをつくる。家具的な掲示板ではなく、「機能する壁」であることが求められた。
往来の多い場所柄、頂戴したお題は特別ではないが解決にはアイデアが必要であった。

一つ、ピンがささること。
一つ、磁石もきくこと。
一つ、表面が硬く、汚れにくいこと。

試行錯誤の末、ベニヤ+復元性クロス+磁性ステンレスという回答にたどりついた。穴があるためポスターを水平垂直に貼るのも簡単だ。        

夫々の素材は注意深く見ればありふれたものばかりである。「掛け合い」のアイデアが大切なのだ。        


                            
                                                                             
もうひとつ。くたびれたベンチを再生することになった。お題は以下の通りである。

一つ、艶やかであること。
一つ、やわらかいこと。
一つ、汚れ難いこと。

これも当たり前の要求であるが、アイデアが必要だった。
答えは長年の使用に耐えてきた「くたびれベンチ」が教えてくれた。
                     
それはビニルレザーである。
椅子の表面材としては、質感に乏しく「ありふれた感」のある素材である。  

デザイナーのサトウアサミさんをはじめ家具や素材、特殊印刷の専門家と話し合い、ひとつの形が見えてきた。                
                            
自然をモチーフにした色と形を大胆に印刷することで、ビニルレザーに新しい命を吹き込めないか。

これは札幌市庁舎ロビーの改装プロジェクトでの話し。

しかしこの仕事に限らず「近代化」が産み出したお手軽で便利な素材も「掛け合い」のアイデアで新たな命を持つことが出来ると信じている。

それを可能にするのはpoorさへの感度だ。                 
                             
poorさへの感度を磨こう。そして素材で漫才をしよう。
                                 
しかしそれより重要なのが人間どうしの漫才である。 
N.F                           
         

育てる VS  育つ

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アイデアを育て、プロジェクトを育て、建築を育てる。人間関係を育てる。               
「育てる」は常に時間と労力を要する。5年、10年、珍しくは無い。
                     
ほんの数ヶ月で、一見潰えたかに見える仕事であっても、育てる意思を持てば息を吹き返すものもある。時と場所を新たにして。
                          
                              
                        
恐ろしいのは、育てている間に、自分が育つことだ。そのときの力で達成できなくても育てている間に自分が育ち、それによってアイデアや人間関係が成熟しプロジェクトが陽の目をみることもある。
                                     
                                                           
教育は「教える」と「育てる」からなるという金言をきいた。経験や立場が上であるなら「教える」ことは容易い。しかし「育てる」ことは辛い作業であると。
                               
「育てる」には「教える」に伴う優越感はない。そして即効的な効果や見返りもない。ただただ傍観するという精神耐力が必要になる。                   
              
傍観している間のストレスや痛みに耐えることで、考察や読みは深まり自分は確実に「育つ」。
                       
                  
「教」に上下関係はあっても、「育」は対等の作業であり「行動」なのである。                          
                                        

10年間、北海道大学の建築学科で非常勤講師として、この「教育」という正体不明の作業と格闘した。その証しを形にしてみたいと、かねてより考えていた。
               
                            
毎年、学生が自主的に発刊する卒業設計集に、私は全員への講評文を半ば強制的に寄稿して来た。
手元にある8年分を全てまとめて製本しようと試みた。自分の「育ち」を確認するために。                         
                   
手コピーで積み重なった約800ページ。釘打ちと糊付けを駆使した装丁方法は
依頼した製本の職人にとっても初めての作業だった。
                       
                                            
「教える」現場で空を切り続けた私の言葉が、時間をかけて
「育てる」に効果を発揮するかも知れない将来、私は自分の
「育ち」を実感することだろう。                         
                                           
出口の見えないアイデアやプロジェクトの数々を眺めながら、
「いまは、育てている真っ最中」と気持ちを抑えた。N.F